ウォルト・ディズニーのつくった夢と魔法の世界に想いを馳せる(´・ω・`).。.:*☆

2019年の3月に辛い気持ちを味わった人にとって、今月は特別な月なのではないかと思います(´・ω・`)

少なくとも、私にとってはそうです。

上手く言葉で表す自信はないけれど。

少なくともそれがウキウキ、ワクワクするような楽しいものでない事だけは確かです。



私は2019/3/26に2代目ミッキーを失っただけでは無く。

さらに大きくて大切なもの。

それまでパークに漠然と抱いていた夢や憧れ自体を同時に失くしてしまったんだと思っています。



あれから1年が経とうとしている今。

あの日に感じた圧倒的喪失感は、未だに驚くほど全く癒えぬままです。



私はたまたまこの数年で美しいパーク、あの足を踏み入れただけで魔法を感じるかのようなキラキラしたパークの空気感、ワクワクする雰囲気、そしてミッキーマウス(着ぐるみ)にハマってしまいましたが。

そして自分の中で急速に大きくなった存在…夢と魔法にあふれて、大好きなミッキーがいるあの世界を。

それこそまたあっという間に失って、未だに今日まで打ち拉がれているわけですが。



そもそもパークってどういう人がどんな気持ちで作ったんだろう。
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最近はただ嘆くだけではなく、そんな風に考えたりする事も増えました。

私はここまで自分が好きになった世界を瞬く間に失ってしまった事がとても、とても悲しくて。

だからこそ、自分にとっての悲劇を自分の中でどうにか昇華するために、自分なりにこの悲劇に納得するために、今はもがいているのかも知れません。



と同時に、それだけではなく。

元々創設者は着ぐるみに熱狂する大人なんて想定していなかったんじゃないか?…とか。

いい大人がミッキーの着ぐるみと戯れて幸せを感じるなんてそもそも病的な世界なんじゃないか?…とか。

自分を戒めるような気持ちがあるのもまた事実であったりします。



周囲の人がそうするように、自分自身でも自分の事をある程度客観視しないといけない、そんな気持ち。

ミッキー一辺倒だった自分を俯瞰してみようとしたり。



今日はまた、昨日途中まで見た映像の続きを見て、色々と考えました。

1955/7/17のあの日をどのように迎えたのか、から始まって、現代に至るまでのパークの姿を短くまとめた映像。

ウォルト・ディズニーの姿を見て、彼と同じ時代を知っている人の声を聞く。

ウォルトが亡くなった時を回想するシーンでは思わず泣いてしまった。

その場面に至るまでの間に何度もウォルト本人の姿を映像で見ていたからか、妙に感情移入してしまって。



多分この過去の映像の内容は色々な本を読んで学習しても得られる知識なのだろうけれど。
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開園当時のカラー映像を目にしたことで、私は初めてアナハイムに興味を覚えました。

色々なアトラクションの製作過程を垣間見た気分になって、製作者側の気持ちに感情移入してワクワクしました。



過去の映像の中では、時々昔のミッキーも出てきました。

それこそアナハイムの元祖ディズニー開園当時のミッキーから、東京で言うところの初代っぽいミッキー。

もちろん大好きな2代目まで。

映像の中のミッキーは変化はすれどもどれも好意的な目で見られるのだから不思議です。



さて、世の中には。

ディズニー通っぽく語る色々な方々が沢山おられるように思われますが。

最近のTDRの宣伝はウォルトの言葉を感動的な感じで引用していたりもしていますが。

みんな元々はこういった媒体で学習してるんだろうなぁ、なんて思いました。

そんな内容の映像でした。



例えばゴミ箱とか、ボルトの一本までこだわる、なんて話とかね。

それはキャッチーな言い回しのように思われますが、その裏にある気持ちにこそ、多くの人は共感するのでしょう。

そしてそれだけではなく、実際にその時代を生きた人達の言葉にはやはり興味を惹かれるものがありました。



映像の中、ミッキーがゲストとハグする姿を見て。

ウォルトがパーティー帽子をかぶっておどけている姿を見て。

開園から最近(といっても結構前っぽいですが)までの時を辿りながら。

時に大人がパークで子供のように夢や魔法を信じる事は、やっぱり悪いことじゃないんじゃないかな、そう思えました。



2代目ミッキーを失って嘆くことも、悪いことじゃないんじゃないかなって。

なぜだろう?過去の映像を見終わった時、不思議と自然にそう思われたんです。

ウォルトさんが生きていたら、きっと話を聞いてくれたんじゃないかな、そんな気がしました。

と同時に、今のTDRに自分はやっぱり違和感を感じてしまうかも知れないな、とも。



インスタ映え推し、加熱し過ぎるショーパレ撮影やグッズ争奪戦、金銭欲丸出しの露骨なコストカット…

それは時代の流れのせいかも知れないし、人間の限りない欲望のせいかも知れないなぁ、という気もします。

もっと気軽に、ゆったりとした気持ちでパークを楽しめたら良かったのにな。



私は2代目ミッキーを失って未だに苦しい気持ちでいっぱいですが。

新顔は決して進化では無い…むしろ退化だ、劣化だ、そう確信しているために。

自分がここまで心を痛めるに至った新顔導入はやはり誤りだったと今でも確信しています。



少なくとも、昨年の今頃、大勢のパークファンがこの先起こるであろう悲劇を予感して苦しんでいた。

これ自体、きっとウォルトさんが想像したパークのあるべき姿じゃないんじゃないかな、そんな気がしました。

自分にとって家族や友人と過ごす楽しい場所が、今や自分の中では2代目ミッキーが消し去られた悲劇の舞台と化してしまったのですから。

そりゃぁ夢も魔法も自分の中から綺麗さっぱり消え去って当然だよなぁ…とも思います。



でも出来ることならば。

だからと言ってこの先パークを憎んで生きていくのではなくて、いつか呪いが解ける未来を信じて生きていきたいな、そう思ったし。

純粋に楽しめる夢と魔法を再び…またいつかパークで感じられる日が来てくれたらいいのにな。

そうも自然と思われたのもまた事実です。



今は自分の中からあの夢と魔法が永遠に失われてしまった、その感覚が消える気配が無いけれど。

でも、自分には子どもの頃に、そして大人になってからも、家族や友達とパークを訪れた幸せな想い出があって良かった。

2代目ミッキーに心の底からドキドキして、この上ない幸せをもらえた記憶があって良かった。

そんな気持ちにもなりました。



あの場所に、かつて確かに自分にとっての夢と魔法が存在していた。

その記憶が自分の中にある限り。

自分がこの先パークから離れたとしても。



“いつかまたあの魔法が戻ってくる時がきっと訪れる”



…そんな希望を持って生きていられるかも知れない。

ウォルト・ディズニーを間近に感じる映像の数々は、思いもかけずなんだかそんな鑑賞後の後味を覚える映像でした。
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